この世の中に存在する中でもっとも好きな「本」を問われたら、「聖書」だと即答するだろう。決して模範的なクリスチャンではないけれど(なんせ、日曜日もめったに教会行かないし

)、それでも「聖書」という書物がほかのどんな本よりも愛される「世界のベストセラー」である理由は分かる。
けれど、いちばん好きな「小説」を問われたら、間違いなく「源氏物語」を選ぶ。中学時代に出会ってから今日まで、幾度も幾度も繰り返し読んだ。いつの間にか宇治十帖に至るまで正確な系図が描けるようになっていた。
「好きな女人は?」と聞かれたら、少し前までは「夕顔」や「朧月夜」を挙げていた。本当は違うけれど…。王道を答えてしまうのは、なんとなく「通」ではないような気がして嫌だった。
けれど今は、まっすぐにこう答えたい。源氏物語に出てくるさまざまな女人の中で、誰よりも私の心を捕えて離さないのは紫の上その女性だと…。
研究者の中には紫の上こそ「源氏物語」の隠れた主人公だとする人もいる。幼少のころ、光源氏に見出され、聡明な女性へと成長する。押しも押されぬ光源氏の「一の女性」。光源氏が明石に流浪の旅に出るときには荘園の証書(いわゆる不動産の権利所)を紫の上の名義に書き換えて出掛けている。
光源氏は間違いなく紫の上を愛していた。誰よりも慈しみ、かけがえのない大切な存在なのだと認識していた。
けれど…。
おそらく紫の上が亡くなるその瞬間まで、光源氏はどれほど彼女を愛していたのか自分自身で理解していなかったのではないか、と思う。
正妻 葵を亡くし、失意の中で北山に籠っていたときに、光源氏は美しい少女と巡り合う。その瞬間、彼は思う。
「なんと、彼の女性に似ているのだろう」
彼の女性とは藤壺の宮。父帝の寵妃で光源氏の憧れの継母。
生き写しなのは無理からぬこと。少女の父 兵部卿宮は藤壺の宮の実兄に当たる。母親は兵部卿宮の正式な妻ではなかった。さまざまな思惑の中で母親が早逝すると、母方の祖母である尼君が彼女を引き取り、北山でひっそりと育成する。
そのことを知ると光源氏はますます少女に執着するようになる。
「姫君を引き取りたい」
と正式に尼君に申し出るも、まだ稚い年頃の少女に何を考えているのかと相手にしてもらえない。
やがて年老いた尼君が亡くなり、兵部卿宮に引き取られる段になって、光源氏は強硬手段に出る。少女略奪。北山から京の二条城に連れ帰り、「紫の上(≒(藤壺の宮の)ゆかりの姫)」と名づけ、彼女の養育に当たる。
以来、明石に流された数年間を除き、紫の上は常に光源氏の傍らにいた。紫の上は光源氏の予想通り、いや、予想以上に藤壺の宮の面差を抱きながら、美しく聡明な女性へと成長していく。
「光源氏の一の女性」。いつしか彼女は正妻と同じように世の中からも重んじられる。が、あくまでも「同じように」という境遇。その生涯の中であれほど光源氏の寵愛を受けながら、一度も寝殿(主が正妻と過ごす場所)を許されたことはない。
そればかりか、いよいよ落ち着いてきた三十代も半ばになって、光源氏(当時すでに四十代半ば)は女三宮という若くて美しい姫君を正妻として迎えてしまう。この姫君もまた「彼の女性(=藤壺の宮)」の姪に当たるのだ。
十歳にも満たないうちに、奪われるように二条城に来て、当然のように光源氏の妻(の一人)となり、夫にどれほどの浮気心が起きようともはや揺らぎようもないと信じていた絆…。それが儚くも断ち切られようとしている…。
それでも、聡明な紫の上は決して取り乱さない。むしろ、朗らかに平穏に日々を過ごす。自分が取り乱しては女房(お付きの女官)たちにも悪い影響を与える。
「私は大丈夫だから、皆さんも先方(女三宮)を悪く言ってはダメよ。新しく嫁がれた姫君は尊いお家柄(天皇の皇女)なのだから、大切に傅かれて当然なのです」
けれど、いかに天女のようにお優しい紫の上といえど、そんな毎日に無理が掛からない訳はない。やがて紫の上は病がちになる。伏せってばかりの日々の中で紫の上は光源氏に出家を願い出る。
平安の御代、「出家」とは現世を捨てること。女性が殿方の思惑を逃れ、自由になれる唯一の道だともいわれていた。
藤壺の宮、六条の御息所、空蝉、朧月夜…光源氏の想い人だった女性の中にも若くして出家を叶えたものは多い。かの女三宮も例に漏れず、柏木との不義の子(後の薫)を産み落とした後、すっぱりと現世を捨てている。
だが、光源氏は紫の上の出家の願いだけは聞き遂げようとしない。認めたくはないのだ。彼女が自分の元を去ってしまうことを…。この世であれ、あの世であれ、自分の傍に紫の上がいない人生など光源氏には有り得ないのだ。
紫の上は出家の願いが叶えられないままこの世を去ってしまう。そうして初めて彼は気づく。
「彼の女性の形代(かたしろ=身代わり)だと思っていた紫の上こそ、自分が生涯愛した唯一人の女性だ」
失意の光源氏は柄にもなく、「思い出の手紙」を燃やしたりしながら出家の準備を整える。
「だったら、『生きて』いるうちに紫の上の出家も許してあげなよぉ

」
と、私は叫びたい。いや、それ以上に、
「『生きて』いるうちに、その女性をいかに愛しているのか気づけよぉ

」
かしら?
いずれにせよ、「まぁったくいつの世も男は…」などと徒然に思いつつ、今日の日記を締め括ります。
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