33

「たぶん、私、そんなに経験ないよ」
「でも、千佳さん、綺麗でしょう。絶対にあると思う」
「確かに、時夫が初めてだとは言わないけれど」
 そこで私は言葉を切った。
「誰かと抱き合うことが、こんなに優しくて暖かいことだなんて、初めて知ったのよ」
 時夫の唇が私の唇を包み込む。
「ちょっと苦いや」
 時夫が呟く。
「口、濯いで来ようか? 嫌でしょう」
 本当は、私が苦さを流したかった。
「ううん、いい」
 時夫が応える。
「でも・・・」
「このままがいいんだ。せっかく千佳さんが僕のを飲んでくれたんだもの。濯がれちゃったら悲しいよ」
 それで私は仕方なく、苦いままの唇を時夫の唇に重ねた。時夫は臆すことなく、その唇を受け入れる。
 今、この空間に他の誰もいらない。
 時夫がいればそれでいい。
「ねえ、時夫・・・」
「何?」
「いっぱいして・・・」
「うん」
「嫌なこと、全部忘れられるくらい、いっぱいして・・・」
 そこで私は瞳を閉じた。
 夜が永遠に終わらなければいい・・・。
 そんな風に願いながら。

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32

 渋谷の道玄坂はきらびやかなネオンとは裏腹に人気はまったく見当たらなかった。「満室」と書かれたホテルもいくつかあるので、それほど流行っていないという訳ではなさそうなのに。カップルたちはいつも秘めやかにその入り口を潜る。
 時夫と抱き合うとき、私はまるで自分が聖女になったような感覚に襲われる。柔らかく、優しく、誰かを守りたくなるような・・・そういう感覚。
 さっき唇を重ねたときは、私の方が守られているような気持ちになったのに。ベッドの中の時夫はどこまでも無防備で、それでいて私を悦ばせようといろいろと試みてくれているようで、そんな彼が愛しくて、私は大切な宝物のように、そっとその部分を口に含んだ。
「千佳さん・・・」
 時夫が呻く。
「駄目・・・」
 あっという間に口の中に苦い液体が広がる。
「ごめんなさい」
 しゅんとした時夫の口調が可愛くて、私はますます彼が愛しくなった。
「いいよ」
 時夫は枕元のティッシュを取り出すと、丁寧に私の唇を拭いてくれた。
「すごく気持ち良くて、我慢できなかったんだ」
「うん」
「千佳さんは、どこでこういうこと覚えたの?」
「え?」
「その・・・男の人がどうしたら気持ちよくなるかとか」
 問い掛けてくる言葉の裏側にある不安が手に取るように分かり過ぎて、私は再び微笑する。

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31

「そっか。私が仕事しているとき、時夫は勉強しているんだ」
「そうだよ、千佳さん、働き者だから、僕には勉強する時間が一杯ある」
 言いながら、時夫の両手が私の頬を挟んだ。
「だから千佳さんは何も心配しないで」
 優しいキス。ついばむような・・・。
 十歳も歳下の時夫から守られているような、不思議な感覚を覚える。
「ねえ、千佳さん」
 唇を離すと時夫が言った。
「したくなっちゃった」
 はにかんだような笑顔を浮かべながら、時夫が私を抱き寄せる。
「私も・・・今夜は時夫といっぱいしたい」
 素直に気持ちを告げると、時夫は嬉しそうに私にキスをする。やがてその手がワンピースの背中のソファに掛かる。
「だめよ、こんなとこじゃ・・・」
 ガラス張りのドアの向こうに、時折食べ物を運ぶ店員の姿が見える。
「じゃあ、どこならいいの?」

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30

「なあんか、嬉しいなあ」
 一時間後、カラオケボックスではしゃぐ時夫の姿を見た瞬間、それまでの疲れが一瞬にして拭い去られたような気がした。
「千佳さんから誘ってくれるなんてさあ、初めてじゃない?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。いつも僕から電話してさ。ああ、その程度なのかなあって不安になったりした」
「心外だなあ。私の中で時夫のプライオリティって結構高いのよ」
「プライオリティって?」
「どのくらい大切かってこと。今日だって、仕事、忙しいのに都合つけたんだから」
「仕事、忙しくても逢いたかった?」
「うん」
 いつからだろう。
 時夫には、こんな風に素直になれてしまう。
 彼の素直さが、頑なだった私の心を癒してくれたのだろうか。
「じゃあ、良かった」
「何?」
「今日さあ、僕も忙しかったんだ」
「そう」
「予備校の模擬試験」
「え?」
「さぼっちゃった」
 悪戯っぽく時夫が笑う。
 私はそんな彼を見て、微かな罪悪感を覚える。
「さぼったの?」
「うん、千佳さんから連絡があったから、嬉しくて」
「駄目じゃない。医学部、受けるんでしょう?」
「大丈夫だよ。模擬試験は毎月あるもん。一回くらいさぼったってどうってことないよ。夏期講習だって、花火でさぼっても、僕、一番だったから」
 一度しかない時夫の十七歳の夏。それを奪えるだけのものが私にあるのだろうか。
 それでも私は、
「本当に?」
 と、時夫の顔を覗き込む。
「本当だよ。なんなら今度、成績表、持ってこようか?」
 そう応える彼の言葉が真実でも嘘でも、構わないほどの愛しさを感じてしまう。
「いつ、勉強しているの?」
「千佳さんが仕事しているとき」
 時夫の応えがなんだか可笑しくて、私は思わず笑顔になった。

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29

「彼は、今、『描いて』いるね」
 支社長は静かに続けた。
「はい」
 私は応える。
「でも、それが私のせいだとは思えません」
「そうかな・・・」
 再び続いた沈黙を破ったのは支社長だった。
「気を悪くしないで欲しい。私の娘は藤森君の妻だ。可愛い孫もいる。もうすぐ二人目が生まれる。親の私たちから見ても、落ち着いた良い夫婦だ」
「支社長・・・」
 乾いた唇をグラスで潤すと、私は言った。
「藤森さんは入社以来、私がもっとも尊敬している上司です。それ以上でもそれ以下でもありません」
 無性に腹が立ったが、辛うじて笑顔は作れていたと思う。タイミングよく携帯が鳴ったので、私は席を立つ。電話の相手は時夫だ。手短に話して席に戻ると、夫人が着席していた。
 おそらくは夫人も支社長と同じ意図でこの席にいるのだろう。今更、藤森さんのことであれこれと探られたくはなかった。
「申し訳ありませんが、この後、約束がありますので」
 丁重にご挨拶して、店を後にする。
 時夫の笑顔に逢いたかった。

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28

「変なことを聞くと思われたかな?」
 しばらくして、支社長が言った。
「日本から帰国の打診があったとき、正直、私は迷ってね。ニューヨークでも彼は重要な立場だったし、クリエイターとしてではなくとも、クライアントからは絶大な信頼を置かれていた。ニューヨーク支社として手放すのは惜しい。それに何より、日本で望まれているのは、藤森君のクリエイティブの能力だ。スランプ中の彼にエルトンの仕事は大きすぎるような気がした。それで、別のものを帰国させるから、藤森君のことは諦めてくれと担当役員に返事をしたんだ」
「そうだったんですか」
 いつもは美味しい鴨肉の味が感じられなかった。
「だけど、日本の役員は諦めきれなかったらしく、藤森君に直接交渉したんだ。その結果、彼からは『帰国させて欲しい』と頼まれる羽目になった。私は正直に担当役員に断った理由も話した。そしたら・・・」
 そこで、支社長は言葉を切った。
「彼は真剣な目をしてこう言うんだ。『朝倉千佳は僕にとっての創造力の源だから、彼女の仕事なら絶対に良いものが描ける。お願いだから帰国させて欲しい』と・・・あんな必死な藤森君の姿を見たのは後にも先にもあのときだけだ」
 手元のウォーター・グラスを取った手が微かに震えていたのを支社長は気付いたのだろうか。

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27

「あら、悪い意味じゃないのよ。ニューヨークのキャリアの女性って、もっとこうぎすぎすしたイメージだったでしょう。朝倉さんがとてもチャーミングだから驚いているの」
 朗らかな笑顔。
「女性蔑視だと言われそうだが、確かに日本でもキャリアを積んでいる女性たちは男性と肩を並べようとするために、『女性らしさ』を損なっているような気がするね。その点、君は実に素晴らしい」
「私も仕事中はあまり女性らしくありませんよ。同期からは『凄みがある』なんて言われていますし」
 細心の注意で言葉を選びながら、なんとか笑顔で私が応える。
「実際がどうかより、大切なのは『外』に対するイメージだろう。エルトンのように女性の美しさのためのブランドを担当するのに髪を振り乱して男性社員と同じ数の煙草を吸う女性では似合わない。あ、君は煙草は・・・」
 慌てて支社長が付け足した。
「いえ、吸いません」
 私の言葉に安心したように、支社長が微笑む。
「どうやら君は良い意味でこの業界に染まっていないようだね。さすが、藤森君の『創造力の源』だ」
 私は一瞬、耳を疑った。それは藤森さんがベッドの中で好んで使った言葉だった。I LOVE YOUを決して言わない彼が髪を撫でながらその台詞を呟くとき、私の耳にはI LOVE YOUと同じ音色で響いてくる。
「あの・・・」
 戸惑いながら、私は尋ねた。
「支社長がどうしてそれを?」
「ん?」
 言葉の意味が解せなくて、中嶋支社長は聞き返した。

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26

「なるほど、君が朝倉君か」
 七里ガ浜の高台のレストラン。眺望の良いテラスの一角に案内されると、上機嫌の支社長がようやくそう切り出した。
「はい」
 やや緊張して応える。
「可愛らしいお嬢さんね」
 柔らかな雰囲気の夫人の笑顔に、オーガンジーを着て正解だと思った。
「崇さんから随分と仕事の出来るお嬢さんだと伺っていたから、もう少し違うイメージの方だと思っていたわ」
 崇さん?
 夫人の言葉に私は耳を疑った。私は一度も呼んだことはないが、藤森さんのファースト・ネームは崇という。あまり他意なく出掛けてきてしまったが、この女性は藤森さんのお義母様に当たるのだ。そして、どうやら「崇さん」は私のことをお義母様にも話している。  
どんな風に・・・?
役員との気軽で有意義なランチ・タイムが緊張の時間に変わる。
 夫人の言葉に支社長が
「失礼じゃないか」
 とたしなめる。

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25

 久しぶりに自宅でシャワーを浴びたその週末、時夫のために淡いピンクのオーガンジーのワンピースを纏った。約束の時間まで、まだしばらくあるが、学生時代に戻ったような気分で、鏡台の前に座る。アクセサリーはパール。去年の夏にローマで買ったピアスとネックレスのセットにしよう。
 鏡に向かって右のピアスを付け替えたそのとき、ベッドサイドのテーブルで電話のベルが鳴った。
 誰からだろう・・・。
 携帯を持ってからは、自宅の電話が鳴るのはめずらしいことだ。
「はい、朝倉です」
 独り暮らしとはいえ、自宅の電話に出るときには、名乗るのが習慣になってしまっている。
『ああ、朝倉君かね』
 電話の相手は初老の紳士らしき声だった。
「はい、どちら様でしょう」
 聞き覚えのない声に戸惑いながら、私が尋ねる。
『悪い、悪い。君のことはしょっちゅう話題にしているものだから』
 悪びれた風もなく、紳士は尚も名乗らない。
「あの・・・」
『ナカジマ・・・といえば、分かるかな?』
「はあ・・・」
 どこかで聞いたことのあるような気もするが・・・ナカジマ、ナカジマ・・・頭の中で必死で手帳のページをめくる。クライアント、恩師、両親の友人、親戚筋・・・。
『だいぶ長い間、日本を離れていたからなあ。社員の認知度も下がったもんだ』
 その一言にはっとする。
「ニューヨーク支社長!」
 電話の相手は、はははと笑う。
「申し訳ありません」
『まあ、いいさ。でも、支社長クラスの人事は覚えておいた方がいいな。君は今や我が社のホープだ』
「いえ、そんな・・・」
 ニューヨーク支社長といえば、現在は本社の取締役も兼任している。役員から直々の電話なんて、誰が予測できるだろう。
『君、今日は暇かね?』
「は?」
『実は今、帰国していてね。妻と鎌倉でデートの真っ最中なんだよ。ランチでもと思っているのだが、久しぶりで店がよく分からん。良かったら・・・』
 女子高生気分で早めの準備をし、時間を持て余していたところだった。ニューヨークの第一線で広告の仕事に従事している支社長夫妻とのランチ・タイムは有意義な時間潰しになることだろう。
「分かりました。今、どちらですか?」
 即座に答えて待ち合わせの場所を確認すると、私は受話器を置いた。

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24

 藤森さんとはあの夜以来、二人きりになっていない。意識的に離れようとしている訳ではないが、エルトン日本支社のオープンイベントに向けて本格的にさまざまな物事が動き出すと、自然と同行しなければいけない人間も増えてくる。
 実際、今まで営業局とクリエイティブ局の二本柱だったプロジェクトメンバーは今週に入って、メディア局とマーケティング局の精鋭も加わり、いよいよという雰囲気でミーティングを重ねていた。
 残業続きの私のために、会社は既にホテルの一室を押さえてくれていた。当然、休日も出勤せざるを得なくなる。藤森さんとはもちろん、時夫との時間も作れないままでいる。
 そういえば、彼とはあの夜の電話以来だ。
 どうしているだろう。
 こうして一日の大半をデスクに向かって過ごしていると、たまらなくあの笑顔に逢いたくなる。
 今週末には少し、時間が作れるだろうか。
 デスクに積み上げられた書類の山を一瞥しながら、私は思う。
 多分、今月一杯、仕事はきりがない状況だ。
 時間を作ろう。
 無理にでも・・・。
 あの愛しい笑顔に逢うために。

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